尚絅学院大学

国際交流エッセイ リレーエッセイ

【国際交流リレーエッセイ 第36回】来日1年目の日本語の失敗談

2022/05/31

国際交流リレーエッセイ 第36回は、国際交流センター人文社会学群担当の呉 正培先生です。日本語のネイティブスピーカーよりも日本語が堪能な呉先生ですが、来日当初はご苦労もあったそうです。そんな学生時代のエピソードを投稿いただきました。

来日1年目の日本語の失敗談

私が留学生として来日したのは約21年前である。韓国の大学で日本語と日本文学を勉強したものの、留学前は一度も日本を訪問する機会がなかった。そのため、来日当時の私の日本語は、日本語の教材で出てきそうな言葉や表現をそのままアウトプットする状態で、自然な日本語を理解したり表現したりする力は備わっていなかった。毎日が、自分の日本語を試してみて、通じなくて、そこから学ぶという日々であった(今も当てはまる話ではあるが)。
数多くのハプニングがあったが、20年が過ぎた今でも鮮明に覚えているエピソードが3つある。  

チューターの日本人学生と, 2001年

チューターの日本人学生と, 2001年

1つ目は来日して間もない頃の出来事である。初めて留学先の大学に登校し、オリエンテーションを受けた。担当職員はとても親切な方で、授業や大学生活について詳しく説明してくださった。オリエンテーションが終わり、その職員にお礼の気持ちを含めて、私はお辞儀をしながらこう言った。「お疲れ様でした。」一瞬沈黙が流れ、職員が冴えない表情をしていた。直感的に何かまずいことをしたんだなと思ったが、それが何か自分にはわからなかった。その後、オリエンテーションに同席した研究室の助手さんが次のようなアドバイスをしてくれた。「お疲れ様でした」という表現には、相手がやるべきことをこなしたというニュアンスがあると。何かをしてもらった相手にお礼を言いたいのであれば、「ありがとうございます」が適切であるということであった。韓国語には日本語の「お疲れ様でした」に類似した表現(「수고하셨습니다(スゴハショスムニダ)」)がある。「수고하셨습니다(スゴハショスムニダ)」の場合、感謝の気持ちを込めて表現することもあり、例えば、授業が終わった時に学生が教員に対して使っても不自然ではない。オリエンテーションでの失敗は、母語の表現をそのまま日本語に適用したことで生じたものであった。

2つ目は学期が始まって間もない時の出来事である。学部研究生として来日した私は、正規の学生ではなかったため、授業に参加するためには、担当教員の許可を得る必要があった。私は先生の研究室に入って、とても緊張しながらこう言った。「〇〇〇〇という授業を是非受けたいですが、お受けしてもよろしいですか。」失礼にならないように「お~する」という敬語表現を使ったつもりであったが、一瞬気まずい雰囲気になった。自分の日本語に問題があったことは察したが、どこがおかしいかは気がつかなかった。先生は快く聴講を許可してくださったが、次のように話してくださった。「お~する」という表現はその行動によって相手に何か良いことがある場合に使うものであると。私が授業を受けることで、先生のためになることはあまりないので、先ほどの場面なら「〇〇〇〇という授業を受けてもよろしいですか」が適切とのことであった。私は、相手が先生であることから、敬語を使わなければという意識が過剰に働き、不自然な敬語を使ってしまったのである。

3つ目は研究室の仲間と飲み会に行った時の出来事である。おつまみを選ぶことになり、「呉さんは何が良い?」と聞かれ、私が「刈り上げ」と言った時、その場にいた仲間たちは爆笑した。と同時に自分が「唐揚げ」を「刈り上げ」と言い間違えたことに気づいた。外国人にとって、言い方が似ている言葉は非常に紛らわしく、混同してしまうことがある。当時の私にとっては「唐揚げ」と「刈り上げ」がその1つであった。

今になって振り返ってみると、3つの出来事はいずれも後で笑いながら語れる話であるが、当時は色々なハプニングを経験してとても恥ずかしい思いをしたため、日本語で話すことに自信が持てなくなり、萎縮してしまったこともあった。しかし、恥ずかしい思いをしただけに、記憶に鮮明に残り、同じような失敗を繰り返すことはなかった。これらの経験から、外国語を学ぶ際は、失敗を通して覚えるという心構え、失敗は付きものと捉え、自分の失敗を笑えるほどの余裕を持つことが重要であることを学んだ。  

はじめての七夕まつり, 2001年

はじめての七夕まつり, 2001年

近年、日本に居住する外国人と日本人のコミュニケーションツールとして「やさしい日本語」が注目されている。「やさしい日本語」は、日本人同士で使う日本語ではなく、日本語を母語としない外国人にあわせて調整した日本語のことを指す。外国人はある程度の日本語能力を身につけ、日本人は外国人がわかるように日本語を調整することにより、両者のコミュニケーションがより円滑になるという考え方である。つまり、外国人が母語話者並みの日本語能力を身につけることを期待するのではなく、母語話者から積極的に歩み寄る必要性を唱えているものと言える。調整された「やさしい日本語」を用いて外国人とコミュニケーションを図る際には、相手の日本語能力にあわせて日本語を調整する力のみならず、外国人の不完全な日本語を理解する力も必要である。「やさしい日本語」の考え方によると、外国人の不完全な日本語は、ただの失敗や間違い以上の意味を持つ。日本人が外国人の不完全な日本語を経験し、外国人が使う日本語の傾向や特徴に関する知識を得ることで、相手の意図を把握する力を伸ばすことができるのではないだろうか。すなわち、外国人の不完全な日本語は、日本人が外国人と日本語でコミュニケーションを取るうえで、貴重な情報となりうる。
今回紹介した私の日本語の失敗談も、日本語を母語とする日本人の皆さんにとって、外国人の不完全な日本語を理解する1つの手がかりになることを期待したい。
 

国際交流センター委員、人文部門准教授 呉 正培