人間心理学科 お知らせ

コラム:平和をもたらさない「平和主義」 [人間心理学科 上村 静]

2015/07/15

イザヤ書2章1-5節

  1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
  2 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。
        国々はこぞって大河のようにそこに向かい
  3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 主はわたしたちに道を示される。
        わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。
  4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
        彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
        国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
  5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


 ここに引用した聖書の箇所は世界的にとてもよく知られている。特に2章4節は、「平和」を求めるキリスト教徒にとってシンボル的聖句とされ、ニューヨークにある国連本部前の広場の壁にその英訳が刻まれている(写真:http://blogs.yahoo.co.jp/jambun_jp2007/1404475.html)。
 4節だけを読むとたしかに素晴らしいことが書いてあり、そうなれば世界は平和になるのだろうなと思わせられる。けれども、その文脈を合わせて読むと、あまり褒められたものとはいえない。

預言者イザヤ

 イザヤはユダヤ教およびキリスト教の中でもっとも有名な預言者として知られ、また愛されている。彼は紀元前8世紀の後半にエルサレムで活動した。当時、アッシリア帝国(現在のイラク北部に首都)という大国が非常に勢力を伸ばしていて、イザヤが活動していた南ユダ王国のお隣にあった北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされそうになっていた。その時イザヤは、南ユダ王国の王に、神だけを信頼して、中立を保つよう助言した。けれど、現実的に対応しようとした王は、アッシリアに貢ぎ物を贈り、属国になることで生き延びた。イザヤにはがっかりな結果となった。
 その王が死んで、その息子が後を継いで新王になった。イザヤはこの新王に大いに期待をかけ、今度こそ自分の助言にしたがってくれるだろうと思っていた。けれども、この王も国際政治的に中立であることを望まず、エジプトと手を結んでアッシリアに反旗を翻した。その結果は悲惨な敗戦で、南ユダ王国のほとんどの町は征服されてしまった。かろうじて首都エルサレムだけは占領を免れたのであった。イザヤはまたもがっかりな結末を迎えてしまった。
 こうして現実の王に絶望したイザヤは、この世の終わりを夢見るようになる。一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)には、「終末論」と呼ばれるこの世の終わりを期待する思想があるが、この世の「終わり」というのは、終わってすべてなくなっておしまいということではなくて、現在のこの世の秩序が終わり、まったく新しい理想的な世界が始まることを期待する考えである。上に引用したイザヤ書の言葉は、その活動の末期に、現実世界に愛想を尽かしたイザヤが将来の終末を夢見て語った言葉であると考えられている。

イザヤ2:4の文脈

 2節に「終わりの日に」とあるように、現在の世界秩序が終わり、新しい世界秩序になったときの理想が語られている。続く「主の神殿の山」とは、南ユダ王国の首都エルサレムのことである。エルサレムは標高およそ800mの山の上にある町なので、「山」と呼ばれている。そのエルサレムが世界で一番高くそびえ、世界中の人がそこに巡礼にやって来るというのがイザヤの理想なのだ。
 そして3節では、世界の人たちが「主の山に登り」、とはつまりエルサレムに上り、「ヤコブの神の家」、つまりユダヤ教の神殿に行くことが期待されている。「主が道を示す、その道を歩もう」とは、ユダヤ教の神が生き方を教えてくれるから、それにしたがって生きる、つまり、世界中の人がユダヤ教の神にしたがって生きるようになることを自ら望むだろうというのである。
 そうなったときには、国々は「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と、こうして戦争はなくなるのだ、というのである(4節)。
 たしかにそうなれば戦争はなくなるかも知れないけれど、こんなどっぷりユダヤ民族主義の思想を他の民族が受け入れるとはとても思えないし、実際のところ、それぞれの国や民族や宗教が自分を中心だと主張するから戦争はなくならないのである。
 イザヤの思想の問題は、すべての人が一つの神を信じること、一つの思想で覆われることで世界が平和になると考えているところにある。それは、民族であれ個人であれ、思想や信仰の多様性を認めないという立場であり、それゆえに異なる思想や信仰をもつ人びとと対立せざるを得なくなってしまう。こうして平和を志向していながら争いの種を蒔くことになるのである。

イザヤの思想の後継者

 イザヤは「終わりの日に」そうなることを夢見るだけだが、この思想を自力で実践しようとしたきたのがキリスト教である。キリスト教は世界中をキリスト教徒の集まりにするために、「宣教」活動を展開してきた。しかし、「宣教」とはキリスト教への「改宗運動」であって、後4世紀にローマ帝国という国家権力と結びついてからは、直接的な暴力を用いて、「宣教」の名のもとに世界を支配しようとしてきた。
 最近では、こうした宣教活動の弊害は認識されはじめているが、いまだにこの問題に気づかない国がある。それがアメリカである。アメリカももはや直接キリスト教を布教するとは言わなくなったが、今なお「自由と民主主義」なる特定の価値観を世界中に押しつけようと戦争を繰り返している。第二次世界大戦後なお世界中で戦争をくり返しているのはアメリカである。イザヤの思想は、キリスト教を経由して現代アメリカ帝国の暴力に繋がっているのである。

戦前・戦中の日本

 似たような思想は戦前・戦中の日本にもあった。
 「八紘一宇」というスローガンが掲げられ、アジア侵略が正当化された。「八紘」とは8つの方角のことで「世界」を意味し、「一宇」は一つの家族を意味する。つまり「八紘一宇」とは、世界は一つの家族だというそれ自体は悪くない考え方だけれど、その中心が天皇だという前提があり、天皇を中心として世界が一つの家族になることを主張する点で、イザヤの思想と似て、きわめて民族主義的なのである。
 「世界の平和のため」と言いながら大東亜共栄圏構想を進めていったのが戦時中の日本なのであり、その結果、2000万~3000万の人々が殺されるという悲惨な結末をもたらした。「平和」を謳っていれば「平和」をもたらすというわけではないのである。
 

現在の日本

 翻って、現在の日本はどうか。70年前の敗戦を機に、日本は戦争放棄をうたう憲法を掲げてきた。いろいろ問題はあるけれど、とりあえず70年間は戦争しないで来た。しかし、今、国会では「安保法制」が審議され、安倍政権は日本が攻撃されていない場合でも戦争に参加できるという法案を通そうとしている。
 安倍政権は、「安保法制」導入の理由として、「積極的平和主義」ということを掲げ、世界平和に積極的に貢献するために、他国の戦争を支援するという。
 もともと「積極的平和」という言葉は、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが提唱したもので、ただ戦争がない状態を「消極的平和」として、戦争の原因となる貧困、抑圧、差別などの「構造的暴力」のない状態を「積極的平和」と呼んだことに由来する。
 これに対し、安倍政権は「同盟国である米国を始めとする関係国と連携しながら,地域及び国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与」(外務省HP)していくことを「積極的平和主義」と呼んで、日本を戦争のできる国に変えようとしている。
 似たような言葉を用いてごまかしているけれど、安倍政権のいう「積極的平和主義」とは、アメリカの下請けとなって日本人がアメリカ軍の代わりに世界の果てまで戦争しにいくということでしかない。軍産複合体のアメリカは戦争をやめられないが、アメリカ人が死ぬのは困る。だから身代わりを探していたのだが、そこで安倍政権が手を挙げたということだ。そのとき戦地に行くのは若い人たちであるし、その報復としてテロに遭うのは一般市民である。
 安倍政権は今年の1月にフリージャーナリストの後藤健二さんを誘拐していたイスラム国に宣戦布告してしまった。少なくとも向こうはそう受け取った。つまり、日本はすでにイスラム国と戦争状態にある――まだ戦闘は起きていないけれども。そういう中で自衛隊を中東に派遣することになれば、日本でテロが起きる可能性は格段に高まる。
 「平和」という言葉を愚弄する者が「平和」をもたらすことはない。

日本国憲法

 現行の日本国憲法の前文には、次のような一節が含まれている。

 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会
  において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
  平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

 これはヨハン・ガルトゥングのいう「積極的平和」を求める思想であり、これこそが70年前の敗戦を経験した日本人が、悲惨な体験から学んだ「平和主義」である。しかし、残念ながらこの理想は実現からはほど遠く、むしろ現在の日本政府は「専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏」を日本国内に広めている。
 「平和」という言葉を語るのは容易いことであるけれども、それを実現するのは簡単ではない。「平和」に必要なことは、聖書であれ国家であれ、偉そうなものがいうことの言いなりにならないこと、自ら批判的な視点をもって吟味・検証することである。聖書のいうことだから正しいということはないし、国のいうことだから正しいということもない。しょせんは聖書も古代の人間が書いたものに過ぎないし、国も人間の営みに過ぎない。「批判的」であること、criticalであることこそが、大学生が学ぶべき最も大切なことである。
 
「悪の陳腐さ」

 ユダヤ人政治哲学者ハンナ・アーレントは、『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』という本の中で、ナチスによる600万人とも言われるユダヤ人虐殺の原因について、邪悪な者が悪を為そうとするから悪が生じるのではなく、凡庸な市民が考えないこと、思考停止に陥ることこそが巨悪を実現させてしまうのだと指摘した。
 たとえ一部の為政者が邪悪であったとしても、市民一人一人が思考しつづけること、自分の考えをもち、それを発信すること、そうして「悪の陳腐さ」に加担しないこと、それこそが世界に「平和」をもたらすのだと思う。
 現在、東京や関西の大学生が中心になってSEALDsという組織を立ち上げ、渋谷の交差点や国会前でのデモ行進というアクションを起こしている(「自由と民主主義のための学生緊急行動」http://www.sealds.com/)。「平和」を語るにはあまりに絶望的な現状ではあるが、若い学生たちが自ら考え、行動を起こし、仲間に呼びかけ、連帯して権力に抵抗しはじめている。ここに一縷の希望があると信じたい。
 
(人間心理学科准教授 上村 静)