尚絅学院大学

人間心理学科 お知らせ

毒のある刺激的な社会思想家エミール・デュルケーム [人間心理 太田]

2017/08/18

 エミール・デュルケーム(Emile Durkheim, 1858-1917)という社会学者・教育学者をご存知だろうか?時代は19世紀後半から第一次世界大戦末期、この期間に彼は今日の個別細分化した学問分野からは想像も出来ない多分野に跨がった学説(社会学、教育学、政治哲学、ネーション・ナショナリズム問題、エピステモロジーなど)を展開し、今日まで影響を与え続けている。

 彼はそれぞれの著作で必ず一つや二つ新しいキーワードを考案する。例えば『社会分業論』の中で、個人と社会連帯との対立関係について、個人が自立すればするほど逆に社会に密接に依存してしまうと彼がみなす事例を列挙し、個人的であることと同時に連帯的であることとは矛盾せず、むしろ並行関係にあると説き、これら二つの統一は社会分業の発展による社会連帯の変化が可能にすると断言する。これは社会学分野では有名な「有機的連帯」説である。論理学上の矛盾律を堂々と正面から説いているのである。

 そうかと思うと今度は、当時として破天荒な研究テーマだった自殺問題を扱い『自殺論』を著し、①自己本位的自殺、②集団本位的自殺、③アノミー型自殺という自殺の三類型を提示する。②は、宗教的儀礼での生け贄、今日でいえば宗教的自爆テロ、かつての日本軍の特攻隊もこれに分類される。集団的な価値体系を第一に考え、その価値実現のため死ぬ事態、あるいはその価値実現がままならない自分を自分で断罪して自殺してしまう事態を②は指している。③は社会病理学分野や心理学領域でも多少意味を変えて今日でも使用されているキーワードである。欲望の歯止めのない肥大状態の時、人間は最も自殺し易いとデュルケームはいう。

 宗教的世界の中でも、聖書の忠実な解釈、戒律にも忠実で自由度が低いであろうカトリックよりも、自由度が高いであろうプロテスタントの方に自殺が多いことを統計結果を持ち出し証明してくる。では不自由で圧政下で苦しむ民衆よりも経済大国で不自由のない生活をしている人間の方が自殺しやすいのだろうか?もちろん自殺率が低いことを理由に不自由な圧政の方がよい、貧困の方がよい等とデュルケームは言っていない。教育学分野では周知のように、フランス第三共和制の政教分離下で宗教教育に代わる理性的で人間の経験知が及ぶ範囲内での道徳教育理論を提案したのもデュルケームである。カトリック側との凄まじい論戦、また従来の哲学・倫理学分野の道徳学説を全く信用していない彼の学説に対して哲学者・倫理学者たちから凄まじい非難の渦が巻き起こった。神無き時代(理論上)のモラルサイエンス問題である。

 他方、同時進行でデュルケームはオーストラリアの原住民の宗教生活の研究を進める。今日でいえば、宗教社会学、宗教人類学の先駆的な取り組みといえるが、政教分離推進派であったデュルケームは理論上葬り去ったはずの「宗教的なるもの」を何故研究したのだろうか?結局彼は論文「分類の未開形態」、著作『宗教生活の原初形態』を著す。「一」と「多」、「大」と「小」、「個人」と「全体」、「バーチャル」と「リアル」など、我々にとっての矛盾律が、神話的世界観では同一律なのである!これは、現在の我々の自明な認識、判断、思考などを揺さぶってくる。また分類のカテゴリーがまるで現代と違う認識構造など…。しかし彼ら彼女らにとって、その世界内の合理性は常に徹底し首尾一貫していて曖昧な点は一つもない。また彼が研究した原住民のトーテミズムが、現在の我々に問いかけてくるのは、近代的・現代的な個性やアイデンティティとの質的断絶である。昔、小学校などで電信柱に彫刻させられ校庭に立てられたあのトーテムポール。これは部族のアイデンティティであって、自他の区別の標識であり、自分たちの存在根拠そのものであった。ということは、トーテムが代われば、また次のトーテムが自分たちのアイデンティティになってくるわけで、個人による選択や意志はこの次元では存在しないことになる。日本だってその昔、名字などなく、「鍛冶屋の」三吉さん、「魚屋の」みの吉さんなど職業が名字代わりだった世界があり、それがきっとアイデンティティだったに違いない。でも三吉さんが八百屋さんになって、みの吉さんが鍛冶屋さんになったらまたそれが彼らのアイデンティティになるに違いない。アイデンティティは絶えず移ろいゆく。

 統合失調症、解離性同一性障害などで、「分裂した自己」「統合されないバラバラな人格」がネガティブさを伴って伝わってくるが、デュルケームの研究は、統一性のある自己なんか元々存在するのか?なぜ固定的なアイデンティティを求め形成しなければならないのか?これって近代社会がそう決めてきただけのことじゃね?(イマドキのワカモノ風に言えば)と鋭く問いかけてくる。そういえば嗜癖に関して、身分制や財産性から解放されて、ある程度自由な選択が可能となった時期に、自分のアイデンティティを決めるためには「同じ行動を継続することしかなかった」、そしてそれを誰が確認するのか?それは「自分しかいない」、だから「自分で自分をモニタリングする」作業が近代では必要になった、それゆえこれは社会自体が「嗜癖」的な作法を人間に植え付けてしまったのだ!という大胆な仮説を唱える社会学者も出てきたのであるが、さてさてその妥当性はいかに…。

 これまでみてきたようにデュルケームのマルチな業績が後世に語りかける問題が凄まじ過ぎる。デュルケームは以前、四角四面の杓子定規な面白みのない社会学の基礎理論の先駆者…のようなレッテルが貼られていたやに見受けられる。また狭義の「社会学」分野、道徳教育理論研究をなした「教育学」分野の者といえばそれまでだが、もっと広く社会問題解決に寄与せんとしたその志と研究活動とはむしろ「社会思想」と換言した方が妥当ではないだろうか。しかも「毒のある刺激的な」という形容がつくぐらいの…。

文責:人間心理学科 教授 太田 健児

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