人間心理学科 お知らせ

敗戦記念日を前に憲法を考える[人間心理学科 上村]

2016/07/28

 日本は先の敗戦から今年で71年を迎える。この間、日本は直接的に戦争に参加することなく過ごすことができた(ただし、日本にある基地から米軍が出立して戦争を行ってきたという一面もあるので、間接的にはアメリカの戦争に加担してきたという事実は記憶にとどめなければならない)。日本が海外で武力行使をしないで来られたのには、現行憲法の「平和主義」という縛りがあったからと言える。しかしながら、先日の参議院選挙の結果、改憲発議に必要な3分の2以上の国会議員が衆議院、参議院の両方に生まれたので、今後は改憲論議がなされると予想される。こうした事態は数年前から予想されていたことであり、「原書・文献講読」という授業の中で、3年前から現行憲法と自民党改憲案を比較するという授業を展開してきた。そこで、以下では現行憲法の「前文」を読解し、そこに記されている理念について考えたいと思う。
 
国民主権
 憲法前文の第1段落には次のように記されている。
 
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 
 ここでは国民主権と代表民主制について書かれているのだが、そのことが「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という「決意」のもとに定められたという。この記述は、あの「戦争の惨禍」が国民に主権のない状態で「政府の行為によつて」引き起こされたという深い反省にもとづいている。それゆえ二度と同じ過ちを繰り返さないという強い「決意」とともに、国民主権という理念が「人類普遍の原理」であることが宣言されている。
 
平和主義
 前文の第2~3段落は次のとおりである。
 
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 
 ここにはいわゆる「平和主義」が掲げられているのだが、まず「人間相互の関係を支配する崇高な理想」への深い自覚が語られる。この理想とは続く「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することである。ここには、戦争というものが他国に対する「不信」から引き起こされるという反省がある。「不信」が軍拡競争を引き起こし、小さな衝突から大きな戦争を生んでしまう。そうであるからこそむしろ他の「諸国民」を「信頼」することで、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのである。他者を「信頼」すること、それが「人間相互の関係を支配する崇高な理想」なのである。
 第2段落の後半から第3段落では、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」の一員としての役割を果たすこと、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことが語られる。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、たんに戦争のない状態を「消極的平和」、それに対して貧困、抑圧、差別などの構造的暴力のない状態を「積極的平和」と呼ぶが、日本の現行憲法もまたこの理念を共有している(現在の日本政府が提唱する「積極的平和主義」――積極的に米国と一緒に戦争に参加すること――とは真逆の考えである)。「全世界の国民」に平和的生存をもたらすことが、日本という国の使命であり、存在意義だというのである。
 現在、世界ではテロ行為が蔓延し、「テロとの戦い」が声高に叫ばれている。近代以降の戦争は多数の民間人を巻き込んでおり、「無差別殺人」であるという点では「テロ」と変わるところはない。「テロ」と「戦争」の違いは何かと言えば、「戦争」は国家が行うものであるのに対し、「テロ」は国家以外の人員、組織が行うものである。すなわち、「戦争」とは「国家テロ」なのである。
 戦争は、貧困と抑圧と差別を生み出す。そして貧困、抑圧、差別はテロリストを生み出す。戦争がテロリストを生み出すという構造からすれば、武力による「テロとの戦い」に終わりはない。むしろ、テロリストを生み出している構造的暴力こそ「地上から永遠に除去」すべきものである。現行憲法の理念を現実化する方が「テロの撲滅」には有効である。
 
理想と現実
 憲法前文の最後の段落は次のように結ばれる。
 
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
 
 現行憲法の前文には、二つの理想が掲げられている。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」と全世界の「恒久の平和」である。こうした理想は非現実的であると批判されることが少なくない。改憲論者は理想では現実に対処できないと言う。たしかに理想は理想であり、簡単に現実にはならない。簡単に現実にならないから「理想」と呼ばれるのである。しかし、現実にならないからと言って理想を捨ててしまってよいのだろうか。理想のない中で現実の問題に対処するとしたらどうなるだろう。現実世界には実に多くの問題が横たわっている。理想がなければ、その場しのぎの対症療法に右往左往するだけであり、また政権が変わるごとに対応も変わってしまう。
 理想は現実にはならないかもしれない。けれども理想に照らして現実の問題に対処していくこと、少しでも理想に近づけるよう努めること、その方が少しはましな世界を作ることに貢献できるのではないだろうか。
 
基本的人権
 国民主権と平和主義は、かつて「政府の行為によつて」引き起こされた「戦争の惨禍」への反省から生み出されたものである。国民に主権のない状態、戦争状態は、人々を「専制と隷従、圧迫と偏狭」、また「恐怖と欠乏」の状態に置く。こうした状態は「人権」の奪われた状態である。人間がただ人間として存在するというだけの理由で「平和のうちに生存する権利を有する」という考えが「基本的人権」である。
 西洋キリスト教諸国ではこれを「天賦人権説」とも言う。キリスト教徒は神の存在を前提にしているので、神が人権を与えているという意味で「天賦」と言われるのだが、この考えは必ずしも神の存在を前提にしないと成り立たないというわけではない。人権は神から与えられたものだということは、神以外のものがそれを奪うことはできないということである。すなわち、国家という人間の組織には「人権」を奪う権利はないということを、「神」という理念に託して表現しているのである。
 現行憲法は「神」の存在を前提とはしていないが、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ために国民主権と平和主義を定めているのであるから、何よりも基本的人権を確保することに主眼がある。国家といえども、すべての人間、ひとりひとりの人間が有する人権を抑圧したり制限したりすることは認めない、それが現行憲法の理念なのである。
 
 このような理念を持った憲法を良しとするか、あるいは新しい憲法に変えた方がいいのか、変えるとしたらどのような憲法が望ましいのか、敗戦の日を迎える暑い日差しの中、読者諸氏には沈思黙考を期待したい。
 
文責: 人間心理学科 准教授 上村静

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