尚絅学院大学

人間心理学科 お知らせ

沖縄・おきなわ・オキナワ・OKINAWAを語るということ [人間心理 箭内]

2017/04/03

〜在学生の皆さんへ・これから入学する皆さんへ〜

 2月の中旬、知人に招かれて、沖縄の琉球大学へ集中講義に出かけました。この時期、寒い地方に暮らしている者にとって南へ向かうことは悦ばしいことです。そのため、もしかすると羨む声もあったかもしれません。それはともかく、実際この期間、学内の仕事を離れていたことは同僚の先生方や職員の方々にはご迷惑をおかけしたと思います。そのせめてものお返しとして、一週間ほどの沖縄滞在を振り返り、自分がこの「学外研修」で得た経験のいくつかを報告してみたいと思います。

 授業は、法文学部人間科学科人間行動専攻課程哲学・倫理コースの「哲学・倫理学特殊講義
I」というもので、内容は「共同体をめぐる哲学」を概観し、そこから共同体の「悪」や「希望」、あるいは「自己了解」の問題を考えていくというものでした。哲学や倫理学を専門で学んでいる学生とはいえ、かなり思考力を要する課題であったと思います。まず、共同体を哲学史的に見渡し、そこからカントやアーレント、ハーバーマスといった哲学者を参考に理解を深めていきますが、哲学文献に目を通し読解していく作業は、かなり骨の折れるものであったでしょう。
 人は、共同体を語るとき、それを外から眺めるではなく、その「当事者」であるということが求められます。彼ら沖縄で学ぶ学生にとって、彼らが住む共同体とはどのようなものなのか、そしてそれをどのように考えているのか、それを知りたいとも思いました。

 昨今の時事的な問題である「共同体」を、判で押したような「ステレオタイプ」の言葉で語るほど信用できないものはありません。また、わかったつもりの「ラベリング」を行うことも愚かなことです。共同体にはそれこそ様々な人が生活しています。それを考えれば、共同体を語るには多様な語りや言葉があるでしょう。共同体に住む人々を、決して一律に考えることはできません。

琉球大学南口(西原口)

琉球大学南口(西原口)

 集中講義の授業は、夕方17:50に終了します。この季節、沖縄はようやく日が沈みかけ、その西日が目に眩しい時間です。しかしそのとき、こちらでは決して耳にすることのない、独特の低いプロペラ音を聞くことになりました。そうです。V-22ティルトローター機。通称「オスプレイ」と呼ばれている輸送機のプロペラ音です。大学の上空を2機渡っていくのが見えます。何かと問題となるオスプレイが大学からさほど遠くない普天間の基地に配備されていることを考えれば、この光景は普段の生活の一部なのでしょう。また、ここ沖縄が「基地の島」であることを考えれば、そこに住む多くの人々が否応なく受け入れている日常なのかもしれません。とはいえ、大学の宿舎に戻り、明日の授業の準備を終え、寝静まった夜半、突然暗闇の中からその音が聞こえてきた時には、やはり非日常的な感覚に陥りました。これを共同体という言葉に投げ返したとき、正直なところ様々な思いが頭をよぎり、この共同体を一括りにしてしまうことができないことを改めて実感しました。

大学キャンパス上空のオスプレイ

大学キャンパス上空のオスプレイ

 週末の土曜日、知人の案内のもと、世界遺産である「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の中城城跡や勝連城跡などに連れて行ってもらいました。沖縄を語るということは、先の大戦の戦禍とそれに対する慰霊の島ということや、あるいは米軍基地の過度なる負担を強いられている島ということに尽きるものではありません。また、あたかもそれに抗うように喧伝されているような観光の地ということだけでもないことは勿論のことです。そこが永く「歴史の島」であったことも忘れてはなりません。この視点から沖縄という「テキスト」を読み返せば、そこに現れるのは、その小さな島で生を紡いできた人々の「ポリフォニック(多声)」な共同体ということになるでしょう。

中城城跡

中城城跡

 翌日の日曜日には、中部の沖縄市に42.195キロを走り切ろうとしている多くの人々が集いました(「おきなわマラソン」2017.2.19)。コースの途中、彼らは、かつてベトナム戦争で「悪魔の島」と言われたこの地にありその最先端となった基地(嘉手納基地)を走り抜けていきます。基地内の人々は駆け抜ける彼らを歓呼で迎え、走りゆく彼らもその人々の声に応えています。これもまた現実なのです。

 こうして「プロペラ音」も「歓呼の声」も、まぎれもなく沖縄という「共同体」の中の一部です。皆さんは、これをどのように考えるでしょうか。

 しかしそれ以上に、このマラソンレースの沿道には市井の人々の声が、その土地に住む人々の声があることを忘れてはいけません。彼らは「大会スタッフ」や「ボランティアスタッフ」ではありません。大会に参加する際に「与えられた名前」を持ってはいない、たった一人の固有の名前を持つ「私」として大会に参加しているのです。ある者は、自分が拵えた補給食を駆け抜けていく者に与えます。またある者は、公のエイドステーションとは別の「私」独自の方法で疲れた者たちを支えます。そしてある者は、三線を弾き指笛を鳴らしながら、この大会に「参加」しているのです。これもまた、この「42.195キロ」という「共同」の行程に参加していることの証です。

 共同体を語るということは、おそらくは自分が使う言葉とは違う言葉を探りながら、また自分の知り得ている言葉とは違った言葉で、語っていく作業を行うことなのだと思います。
 
 単一な言葉でもって事柄を理解しようとするのはたやすいことです。なぜなら、それ以外の労力を必要としないからです。しかし、そのようなためらいのない言い方は、共同体の多様性を見失っていると私には思えます。自分だけがしたり顔で悦に入っているだけでは、そこに生じている問題を単純化させて、問題の本質に迫ろうとする努力を危うくするからです。もし私たちが、真摯に共同体について考えようとするのであれば、その共同体に住む人々が語る様々な物言いに逡巡することになるでしょう。瞬時の解決を求めるものではなく、そこで一旦立ち止まること。場合によっては、ためらい考えあぐねてしまうこと。私たちが住む共同体をより豊かにものにするには、おそらくこのようなことの繰り返しが必要だと思います。

 ほんの短い期間でしたが、本学の学生に、そしてこれから本学で学ぼうとしている皆さんにどのような言葉でこの経験を語るのか、この課題を抱き当地をあとにしたのでしたが、今はこのような言葉しか、自分の中には思い当たるものがありませんでした。
 

嘉手納基地 Gate2

嘉手納基地 Gate2

文責: 人間心理学科 教授 箭内 任

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